2009年03月

ウォーク・ザ・ライン

「ウォーク・ザ・ライン」 ジェームズ・マンゴールド ☆☆☆
 ジョニー・キャッシュの自伝的物語。典型的なアメリカ南部のプアホワイトの家庭に生まれ兄を無くしたことと、カーターファミリーのジューンとの恋愛問題をずっと綴っていく。
 面白かったのは、1950年頃のジェリー・リー・ルイスやエルビスとのツアーの様子と、自分たちの歌のファンと歌手の生活感がズレていくその皮肉さ。それは父親との問題でもあり、たぶんあの時代も絡んでいるんだと思う。もうひとつ、後半フォルサム刑務所のライブで終わるのかと思ったらもうひとつヤマを用意していた。まあ、筋からいえばそうなんだろうけどもう少しライブのシーンを見たかったような気もする。
 あと、薬の問題。おそらくディランがナッシュビルスカイラインを出した頃、キャッシュは最低の状態だったのだろうか? それと映画の中の挿入歌を主演のホアキン・フェニックスとリーズ・ウィザースプーンはすべてやっているというのは驚き。キャッシュなど特に後半、なんとなくそれらしく聞こえるからたいしたもんだ。
2005年作品

聞き書石川の食事

「聞き書石川の食事」 農山漁村文化協会
img20090330.jpg「聞き書石川の食事」 農山漁村文化協会
 図書館の書架をあさっていると、日本の食生活全集という県別の食を取り上げたシリーズがあり、気になって開いてみた。石川県といっても加賀と能登ではまるで違うし、加賀地方でも白山山麓部と平野部さらに金沢などの市街部でまた違う。なかではやはり、自分の育った金沢商家の食というのが興味深かった。はしがきによると、大正から昭和の初めにかけての食事だということで、肉類がほとんどなく、魚と野菜主体の食事ですが、見ていくと僕の子供時代にも出てきた食事がいくつもある。なかでも懐かしかったのはお祭りの時などに必ず作られた、箱寿司(押寿司)とえびすと呼んでいた、だし汁を醤油と砂糖で味付け卵を溶き入れて、寒天で固めたもの。また冬によく出されたねぶか(ネギ)の粕汁、春のいわしのふかし(つみれ)等々。あれはこういう風に作ったのかと知らされたものもあり、なかなか楽しい読書でした。

謎手本忠臣蔵

「謎手本忠臣蔵」上下 加藤廣 新潮社 ☆☆☆
img20090328.jpg 浅野がなぜ激昂して刃傷に及んだか? を当時の朝廷と幕府の関係からくる問題だったのではないか、という設定で書かれた赤穂浪士もの。最初はなかなか興味深い出だしなのですが、雑賀衆の大石襲撃あたりから違うんじゃないの? という感覚になり、どんどんつまらなくなってきて、下巻では家康の誓文書の問題もどこかに行ってしまって、ただの赤穂浪士ものになってしまっている。それでも読ませるのは忠臣蔵という物語の力か?
 著者は60歳から小説を書き始め75歳でデビューということらしく、それには感心しますが、後書きなど読むと、ただの困った老人としか思えない。
 そういえば、忠臣蔵を取り扱った小説ってほとんど読んでいないなと気がついた。映画は60年代の東映映画などでそれなりに見ているけれど、小説は山田風太郎の「忍法忠臣蔵」くらいしか読んでいないな。

木漏れ日に泳ぐ魚

「木漏れ日に泳ぐ魚」 恩田? 中央公論新社 ☆☆☆
img20090326.jpg 男女二人が荷物を引き払ったアパートで一夜を過ごす。明日の朝には二人はここを去り別れていくが…。なにか芝居でも意識したような作品。章ごとに語り手を変え奇数章は男が偶数章は女が語ります。それはいいとして(ケレン味が強すぎる?)二人の話の中で二つの謎が出てくるのですがその謎の解が強引すぎます。もっともそういった謎の解はどうでもよく、『女は過去を断ち切ることの出来る生き物。』で『女には、自己憐憫という娯楽があるのだ』というのがテーマなのでしょうが。

銭湯の謎

「銭湯の謎」 町田忍 扶桑社 ☆☆☆
img20090325.jpg 銭湯に関するさまざまな蘊蓄。ペンキ絵についてもいろいろと書いてあり、ペンキ絵やタイル画では、(富士山の見える地域では)富士山の絵柄が多いが、その他のモザイク画などではいろいろな画題があるとのこと。そういえば、早稲田にあった風呂屋では「パリスの審判」らしきシーンが描いてあったな。また、東京では洗い場の奥に湯船が設置されている形が多いが、地方ではそうでもないそうで、落合にある人生浴場のような洗い場の中央に小判型の湯船があるのは地方型だということがわかります。
 ちょうど漱石の「吾輩は猫である」を読み直していたら、苦沙弥先生の銭湯(『猫』では洗湯と表記)での情景が書かれていましたが、はっきりと書かれてはいませんがおそらく洗い場も湯船もタイルではなく木造で、当然カランなどはない(カラン付きの洗い場が出てきたのは昭和に入ってからだそうです)風呂代が二銭五厘、燃料は石炭と松薪。『猫』が書かれたのが明治38年ですから、この本によると、苦沙弥先生の通っていた銭湯は東京地方に多い懸魚(げぎょ)の付いた唐破風の入り口などはなく(これらの意匠が流行ったのは関東大震災後とのこと)ペンキ絵は大正元年神田猿楽町の「キカイ湯」を嚆矢とするそうですからペンキ絵も無かったようです。ただ湯気抜きのための天井の高い建築様式は明治十年代中頃に出てきているので、江戸時代のような風呂ということではないらしい。
 東京以外の銭湯についてもいくらか書かれていますが、僕の行った地方の銭湯では、昔、西穂高の帰りに飛騨高山で入った銭湯が記憶に残っています。町中にある風呂屋でしたが、古風な造りで、冬だったこともあって湯気に煙り大げさに言えば幻想的な風呂屋でしたが、今もあるかどうか?
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